田中良紹氏が以下のような文章を書いている。

「歴史の真相を闇に葬るNHKと朝日新聞の罪」

 
実はここで取り上げられている『田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と特捜検察「栄光」の裏側』(朝日新聞出版)を私も少し前に読んだ。
そして田中氏と同じ感想を持ったのだが、なによりも強く思ったのは、鼎談をしている3人の記者に「検察官は政府の一員であって、『権力の走狗』である」(小室直樹)という認識が決定的に欠落していることだ。
 
小室氏はまたこうも言う。
 
「どういうわけか日本人はその権力の走狗たる検察官を信頼してやみません。なかでもマスコミ、とくに新聞やテレビは検察が調べて発表したことを最初から真実だと決めてかかる。これもまた民主主義を理解していない証拠です。」
 
本書のなかでは、検事から「特ダネ」を教えてもらった記者が「さすがだ」などと持ち上げられており、どの記者も検事にいかに食い込むかという話が「自慢」として語られている。そこには
 
「近代の裁判では要するに『検察官や刑事にろくな奴はいない。国家権力を背中にしょっている連中は何をしでかすかわからない』と考えるのです。国家権力をもってすれば、どんな証拠でもでっちあげられるし、拷問にかけて嘘の自白を引き出すことだって簡単にできる。そこまで意図的でないにしても、誤認逮捕などはしょっちゅう行なわれているに違いないと考えるのが、近代裁判なのです。言うなれば検察=性悪説が近代刑事裁判の大前提。」(同)
 
という認識もまた微塵もない。
著者の一人(元々、検察寄りで有名)が「陸山会事件」についても検察に肯定的な評価をしているのも当然の帰結といえる(一人は疑問を呈しているが)。

小室氏はデモクラシーとは「人間の自然状態(natural state)ではなく、めったにないものだということ。三〇〇〇年に一度咲くと仏典にいう優曇華の花のように珍しい」ものであり、「滅多にないかよわいもの」なので、これを守るために
デモクラシー諸国におけるジャーナリズムの役目は、天下の木鐸などという生易しいものではなく、天下の護民官でなければならない。権力の作動を人民の名において拒否する力をジャーナリズムが失ったらさいご、デモクラシーの回転もまたピタリと止まる。
もちろん、これは命がけだ。権力という怪猫の首に鈴ぐらいでは足りなくて鐘をつけるだけでも気絶するほどの勇気がいるのに、ジャーナリズムというネズミは、つねにこの怪猫の後を追いまわしていなければならない。「権力の監視」と言っても、それは、ジャーナリスト自身の取材に基づく真実を前提としなければまったく無意味なのだから、当然、こういうことになる。」と説いているが、司法記者のみならず、「一流」と言われるマスメディアに所属する記者たちのほとんどが“「権力の走狗」の走狗”に堕しているのだから、この国のデモクラシーがまともに作動するわけがないのである。

・参考文献(すべて小室直樹著)
『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル)※
『田中角栄の呪い』(光文社 カッパ・ビジネス)
『田中角栄の遺言』(クレスト社)

※『日本人のための憲法原論』は伊藤塾塾長の伊藤真弁護士が「(小室先生とは護憲か改憲かというスタンスは異なるが)憲法ですとか、法の役割ということに関しては、深く先生のお考えに共感するもの」であり、「憲法というのは、その本質は権力を拘束するものであると。当たり前のことなんですけれども、普通の法律とはまったく役割が違うということを明確にいわば市民に向けて、国民に向けて、発信して下さったのは私の知るところ、小室先生だけ」「二〇〇一年に出た『日本人のための憲法原論』がもっともっと国民に、そして、政治家に読まれていたのならば、その後のさまざまなこの国の憲法状況は変わっていたのではないかなと思います」と激賞している。